日本のストレス社会と「当たり前」に対して疑問を持つ事

この国では多くの人が様々なストレスと闘いながら日々生活を送っています。もちろん適度なストレスは人間性を成長させてくれる事もあるので必ずしも「悪」と決めつける事はできませんが、集団主義から与えられる「個人では処理しきれないストレス」はその人にとっては害でしかありません。特に日本の社会では「当たり前とされている事に対して疑問を持ったり意見を言う」事を許さない風潮があり、そのような大きなストレスが生まれやすいと私は考えています。ここではそんな日本のストレス社会について私なりに考えた事を書いてみます。かなり長文ですがご興味のある方は下記「続きを読む」よりどうぞ。

「集団を美徳とする考え方」は大きなストレスを生む

日本で「個人では処理しきれないほどの大きなストレス」が生まれやすい原因の一つに、日本人特有の「集団を美徳とする考え方」が挙げられます。日本人は常にその考え方に基づいて行動を決めるため、「自分一人の考え方よりも集団としての考え方を常に優先」しています。簡単に言えば「周囲の視線を気にする」という事です。それによって「日本人という体裁」を守ってきたのですが、その中では頻繁に「自分を隠して集団に合わせる」という事が行われます。仮に「自分の意見が一番正しい」と自分では思っていても、その意見が集団と違う場合には「自分の意見を押し殺してでも集団の意見を優先する」のです。これを簡単に言うと「多くの人がこう言ってるんだからそれが正しいんだろう(考えるのを止めている)」ですね。しかし世の中の全ての人が「周囲に合わせる」という能力を持っている訳ではありません。日本ではそういった「周囲に合わせて自分の意見を変えられない人」が集団から蔑ろにされ、周囲から不当な扱いを受ける事が頻繁に起こり得ます。

これはネット用語を借りれば「コミュ障(コミュニケーション障害)」なのでは?と思う人もいるかもしれませんが、決してそうとは言い切れません。何故なら「多くの人がしている事=正しい」とは限らないからです。実際、集団としての考え方があまりに優先される事では「多くの人がしている事=それは当たり前の事」という固定概念が生まれ、それによって「多くの人がしている当たり前の事をしていない人=おかしい人」というレッテルがよく貼られます。分かりやすい例で言えば「スマートフォン(スマホ)」がそうですね。最近の若い人はそのほとんどがスマホを持っていますが、世の中には当然スマホを持っていない人もいる訳です。例えば経済的な理由でスマホを持てない人もいれば、パソコンがあればスマホなんていらないという人もいますし、単純に興味がなくて買わない人もいるはずなのです。しかし上記のように集団としての考え方を優先する事でそのようなスマホを持っていない人をイレギュラーな存在とし、それを集団から排除しようとします。その結果、スマホを持っていない事が決して「間違い」ではないはずなのに、スマホを持っていない人を馬鹿にしたり蔑んだりするなんて事が日常的に起こっているのです。

これはスマホに限った事ではなく「流行しているもの」「あって当たり前のもの」の全てに該当します。例えばゲーム、アニメ、漫画、スポーツ、テレビ番組、音楽、ファッションなどの好みは人それぞれのはずなのですが、それが「流行しているもの」だと途端に「それをしていない人=異常」という選別が起こります。選別を行って、やたら「多くの人が利用しているもの」と「多くの人がその存在を認めたもの」だけにしたがるのです。好きな漫画があれば嫌いな漫画もありますし、スポーツが好きな人がいれば嫌いな人もいます。また漫画を読む人がいればアニメは全く見ない人もいますし、実際に体を動かす事が好きな人もいればただ見るのが好きな人もいますよね。それは人それぞれで良いのではないでしょうか。


「間違った当たり前」を押し付けるという事が頻繁に起こる

集団としての考え方を優先する日本人にとっては、上記のような「悪を正すかの如く選別する」のは単なる「善意」です。ですのでその善意を行使する事に対しては何の悪気も持っていませんし、自分たち(集団)の考え方が最も正しいと思っているので疑う事もありません。そうして「自分たちを疑う」という事ができなくなるとどういう事が起こるか。「日本人は騙されやすい」とよく言われますが、まさにその通りで騙されやすくなり、それと同時に「勝手な正義感で人を騙す」という事が起こります。「自分が正しい」と思って行っている事が実は意図せず人を傷つけ加害者になっており、それが「日本人」という非常に大きな集団の中で頻繁に発生しているのです。

例えば3.11の東日本大震災ではネット上で多くのデマが横行しました。特にSNSサイトのツイッター。ツイッターでは「リツイート」という方法で他の人へ情報を拡散する事ができますが、「多くの人がリツイートしている=正しい」と思い込み、たくさんのデマ(一つ一つについては省略。興味のある方はこちら→「NAVERまとめ」から)が拡散されました。これはまさに日本の縮図だと私は思います。日本人は今まで集団に身を委ねる事で自分の意見を持ってきたので、この例のように集団から与えられた情報に対して「疑問」を持つ事ができない。だからこそ、正しい間違っているに関わらず与えられた情報をそのまま受け入れて自分の知識の一部にしまうのです。

「情報に対して疑問を持つ事ができない」という事は「その情報が正しいかどうかを判断する能力がない」という事でもあります。何故なら「正しい情報を選ぶフィルター」は「情報に対して疑問を持つ」という事でしか鍛える事はできないからです。いざ間違った情報が与えられた時、その情報が正しいのか間違っているのかを判断するのは「個のフィルター」なのです。しかし集団主義の強い日本人は大勢が賛成している意見に対して、その情報が正しいのかどうかを考えませんから、仮に「当たり前という前提が間違っていた時」であっても、その「当たり前」を何の悪気もなく「個」に押し付けるという事が十分起こり得るのです。

しかも「集団」による多勢からの意見は個人にとって常に大きな影響力があるのですが、それによる影響を一切考えずに集団としての意見を押し付けます。当然個人にとってそれは「行動を制限する原因」になりますし、自分では処理できないような非常に大きなストレスを感じてしまうでしょう。もちろん311に関してはあれだけの出来事ですから冷静な判断ができなくなるのも分からなくはないですが、情報を得られる媒体が「多くの人が利用していて信頼できる」ほど、その情報が間違っていた時の被害が大きいというのは強く認識しておくべきだと思います。既に我々はあの経験からそれを学んだはずです。


子どもに対する「大人」という集団の影響力

例えば誰に教わった訳でもないのにとても絵が上手い子どもがいたとします。その子は絵を描く事が大好きで様々な絵を描きますが、骸骨や筋肉の絵など、絵の事をよく知らない我々にとっては非常に個性的な絵をよく好んで描きます。一方、それは芸術の専門家からすれば才能が溢れ出してくるような素晴らしい絵であり、「将来世界的に名前を知られるほどの画家になるかもしれない」と評されるほどです。

前述してきた「集団」には「子どもを持つ親」のほとんどが属しており、当然子を持つ親もその集団の考え方に基づいて行動しています。子どもが周囲と異なる考え方を持っていたり、周囲とは異なった行動を取ったりした時、必ずといって親や先生は「協調性がない」「落ち着きが無い」などと頭ごなしに叱りつけます。そして周囲と異なる考え方や行動を一方的に止めさせ、「周りを見ろ」「周りと同じ事をしろ」というように周りと同じ考え方や行動を優先させようと教えます。

我々のような絵の知らない大人が「気持ち悪い絵を描いている」と決めつけてしまった時、実は子どもは子どもなりにもそれに対して疑問を感じているのです。一方的に叱られるほど「何故怒られた?」「何故これをしなきゃいけないの?」「何故周りと同じ事をしなきゃならないの?」「何故これをしちゃいけないの?」という疑問は強くなります。しかし疑問を持ったとしても、その疑問を大人のように上手く表現する事はできないため強く混乱してしまいます。

子どもは何か分からない事があった時、頭の中が整理できずに混乱してしまった時、自分が一番信頼する事のできる人に助けを求めます。ここでは両親ですね。まだ知識や表現力の乏しい子どもにとっていつも身近にいる「親」は最も頼りになる存在だからです。ですのでそんな絶対的な信頼を寄せる親から「納得するような叱られ方」をされれば、子どもも何の疑いもせずにその言葉を受け入れる事ができるでしょう。しかし「わがまま言わない」「ダメって言ってるでしょ」「どうして分からないの」というように子どもの持つ疑問を頭ごなしに否定すると、「何故絵を描くと怒られるのか」「何故この絵を描いてはいけないのか」が分からないままになります。日本では古くからこういう教育が行われており、子どもの「考える能力」が鍛えられてきませんでした。それは今で言う「社畜精神」の根本原因となっています。

確かに周囲に合わせる事は大切な事ではあるでしょうが、それよりも大切なのは「子どもの持った疑問に対して真摯に向き合い、上手く言葉にする事ができるようサポートしてあげる事」です。それをせずにただ厳しく叱り続けると、その後も「絵を描く事以外に新しい事を始めたいのに、周囲の視線が気になり過ぎて何も始められない」という葛藤が常に付き纏うようになります。それによって周囲の視線を常に伺い、周りに合わせる事を優先し、自分自身を疑い、周囲の誰かに意見を求めたりしないと自分では何も判断する事ができなくなっていくのです。そのような日本人が増えて、果たしてこの国をより良くする事ができるでしょうか。


ストレスを誰かに与えるか、自分に溜め込むかの両極端になっている

周囲の視線を常に伺い、周囲よりも真っ先に自分を疑うというのは「自分で自分にストレスを与える理由を作る」という非常にネガティブな状態です。そのような人は周囲と自分の考え方や行動が異なる度に疑問を持ちますが、自分ではその疑問を上手く解決する事ができないので、ひたすら自分を隠して生きていきます。それは上記の絵の上手い子どもも同じです。小さい頃から厳しい躾をされ、真面目で我慢強い人の方がそのような状態になりやすく、一旦ネガティブになるとそれがスパイラルとなってどんどん悪循環していきます。日本人の多くは元々ストレスに対する抵抗力が強く、いわゆる「我慢強い」人が多いと言われますが、それはこれが元になっているのです。もちろんその中にはストレスを上手く発散できる人もいますが、むしろ発散させる方法を知らない人の方が多く、発散できなければ自分の中へストレスを溜め込んでいくだけになります。それが限界を迎えた時には既に遅く、自分も周囲も何か取り返しの付かない事が起こってから気づく事も多いですよね。時にはニュースになったり。

もちろん「集団側」は気づく事はないと言っても「集団に合わないイレギュラーな個」を追い出す事で自分たちの立場を守ってきました。ですのでこれまで「壊れていく個」をたくさん目にしており、集団に対して個がいくら逆らっても勝ち目がない事は皆が知っている訳です。そのため「個」になって集団から孤立する事を非常に恐れており、最初は「個」として威勢を張っていても次第に「集団に属する」という事に強く固執し、常に周囲に合わせて考え方を変えるようになります。同じ意見を持つ者同士で同調し合うと気持ち的にも安心しますよね。そうして周囲に合わせる事で「孤独を避ける事ができる」という事に気づくと、集団の中に居続けるためにますます自分を隠すようになるのです。そして「集団の中にいた方が居心地が良い」事にも気づき、知らず知らずの内に「自分を隠していた」という事すら忘れてしまうでしょう。更に、一度「集団に属する」という事の居心地の良さが分かると、一人でいるよりも激しい自己主張が行えるという事にも気づいていきます。最近はデモへの参加だったりSNSサイトだったりという場が増えており、集団の中では自分と意見を同調する多くの人がいて何も怖いものはありません。ですので今まで抑圧されてきた個を爆発させ、途端に激しい自己主張を行うようになっていくのです。それによっては他人に「ストレスを与える」という事を快感とする人もおり、ストレスを与えるか溜め込むかという両極端になっています。

そのような両極端になると何かに対して疑問を持つ頻度がますます減っていきます。子どもの頃は誰しもが「何で」「何で」と疑問ばかりだったはずなのに、大人になると疑問を持つ事よりもまず周囲に合わせ安定する事を優先してしまうのです。もちろん自分の子どもなど「何かを守るため」にそうならざるを得ない人もいますが、周囲と考えを同じくしていれば集団の中で孤立する事はまずありませんから、ほとんどの人は「誰かと同調していた方が楽」で集団の中に居続けているのです。集団としての立場を利用し、そこで与えられた情報をただそのまま受け入れる、それは「ぬるま湯に浸かっている」と私は思います。


「当たり前」に対して時には疑問を持つ事が重要

当ブログのテーマに関して言えば、例えば「◯◯でニキビが治る」という多くの人が信じている周知の事実があるとします。しかしその「周囲の考える当たり前」をそのまま受け入れるだけでは何も変わりません。何故なら情報をただ受け入れるだけで「考える」という事を止めているからです。現状を変えたいのなら「○○でニキビが治る」という言葉をそのまま受け入れるのではなく、「○○を行うと何故ニキビが治るのか」「○○は何故ニキビに悪いと言われるのか」と疑問を持つ事が重要なのです。